笑う推しには福来る

ファンレター書くタイプのオタク

成仏しながら生き続けているおたくの話

先日、つづ井さんが更新された「オタクのバグ」という絵日記に、それなー!ってなった勢いで書きました。*1
自分からアクションを起こしていたかどうかでバグを起こした後の心境や行動が大きく変わる、という感じの話です。


◆『成仏』とはなんぞや
私の場合は、推しの仕事が最高すぎて満たされすぎて『これ以上の幸せはないな、今が人生の最高の頂点だし悔いもないから今すぐ死んでもいい』と思った瞬間のことを『成仏』と言っています。

似た感じの感覚だとこちらの記事も。
ちょうど更新された日に読んでいたのですが、私も成仏できた数日後というタイミングだったので、わかりすぎてしんどくなりました。
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◆『成仏』して降りた過去
今の推しに限らず、成仏したこと自体は今までのおたく人生で何度もあります。
それこそ上の2つの記事と同じく、好きなアーティストの初めてのライブでご本尊を拝めて、セトリも理想で幸せの頂点だと感じて、本当に二度とその人のライブに行かなくなり、情報も追わなくなったことがあります。

また、大好きな2次元の作品で成仏できた時は、グッズコンプは当たり前、限定もののために遠征するガチ勢だったのが、特に気に入ったものだけ買う程度になり、公式の更新だけ見ていいねつけるレベルのゆるおたになったこともあります。

昔やっていた同人活動だと、出したいもの出し切って満足してそのジャンルから去ったことも、私の中では成仏に含まれます。

ただ、傍から見たら降りたようにしか見えないと思うんですが、実際には満足したことで好きの度合いがマグマからとろ火になっただけで、過去に好きだったものは今も好きには変わりはないです。


◆今の推しに『成仏』させられ続けていること
今までは、成仏したらそのジャンルでのおたく活動を頑張らなくなる傾向にありました。
でも、今の推しはちょっと違います。
成仏させられてもずっと推し続けていて、3年間で何度も何度も成仏させられ続けています。
しかも、成仏の度合いは新しい仕事を見せてくれるたびに強くなっています。

過去の好きなものとの大きな違いは、直接声を届けているかどうか。
今までは好きなものの公式に直接アクションを起こしたことは一切ありませんでした。
だから、たまたま目の前で自分に都合の良い奇跡が起こったら、そんなことは二度と起こらないって直感的にわかってしまうから、自然とガチ勢をやめてしまう以外の考えがなかったです。
今の推しも、手紙を出すことがなければもっとゆるく推していて、好きな役者の一人というだけで『推し』と呼ぶこともなかったんじゃないかと思います。


◆『成仏』の先
声を送ったことがない時代は対象をあくまで『コンテンツ』としてだけ見ていたのかなって(それが悪いことではないです)
お金を払いはするけれど、一方的にコンテンツを受け取るだけだったから、『成仏』はきらきらした一度きりの奇跡だと思っていました。

今の推しのことを『コンテンツ』として見ている部分はあるけれど(客に見せているのはあくまで『仕事上の顔』なので)相手が『感情がある生身の人間』だっていうのをベースに動いているところはめちゃめちゃあります。
この言葉を送ったら傷つかないかな、失礼なことを言ったりしていないかな、ここが良かったっていうのがまっすぐ伝わるといいな、見せてくれるものを楽しむ以上に常にそういうことを考えながら推すようになったのは初めてです。

今は、伝えたいことが伝わって推しが最高のものを見せてくれた時に、これまでにはない成仏ができています。
そして、推しが見せてくれたこと、ファンが伝えたことはずっと蓄積されていて、それを元にさらに上をいくことができるからこそ、ずっと成仏させられ続けれているんだと思います。

それは『奇跡』ではなく、推しとファンがお互い全力で行動をし続けた『結果』なのかな、と。
だから、推しを推すまでの『成仏』と、推しに与えられた『成仏』は、どちらも死んでもいいとは思っても、性質が全く違うんですよね。
すごくおこがましい言い方をすると、推し本人と関係者とファンで一緒に『芸能人としての推し』という存在を作り上げていると思っているので、今はたまたま与えられたものではなく、自分もある意味当事者だからこそ、最後まで責任を持ちたくて、冷めたり降りるという選択肢がないです。
(ただ手紙を読んでくれるだけでなく、私の声が推しの仕事に反映されたことも、それが勘違いでなく推し本人から直に肯定されたこともあるという前提での発言です)

三者からはそこまで重く捉えなくても、と思われるかもしれません。
ただ、やっぱり、私が推して声を届けることもなければこういうことをすることもなかった、ということが何度もあると、重くもなります。
思い通りになってほしいとか、支配したいわけでもないし、あくまで他人だからこそ余計に。


◆◆◆
結論としては、自分から推しに声を届けていようがいなかろうが、成仏の先にはそれぞれ違う地獄が待っている、ということです。
もう一度見たくても二度と見れない景色を知ってしまって飢餓地獄に落ちたり、推しの熱に焼かれ続ける大炎熱地獄に落ちたり。
いくら輪廻転生したっていくらでもお釈迦様の手のひらで転がされて成仏して地獄に落ちての繰り返し。
おたくとは業が深い生き物で、どうあがいたって地獄に落ちるしかないんです。


とはいえ、地獄で苦しめられても成仏できた時点で幸せなんですけどね。
地獄も、地獄という名の温泉なのかもしれません。
心頭を滅却すれば火もまた涼し。

*1:某よしえ動画のおかげで、それなー沸いたー優勝って軽率に言ってしまうようになりましたそれなー